思い返すようなほど時は過ぎて
2
一度判りあえたからといって、
ずっと判りあえるなんて、そんなこと、信じられる?
勿論、その時は心の底からそう信じられた。
でも今は、ちょっと揺らいでる自分がいるのさ。
どうして揺らいでいるのか……それさえも判らずに。
牧場の朝は早い。
それこそ朝も白み出す前から動き出す。
ちょっと前まではあたしもその時間に合わせて一日が始まっていた。
―――いつから? それが当たり前でなくなったのは。
ずっとずっと続いていた『当たり前の時間』が、そうでなくなったのは。
「ふぁああぁああっ! おぁあぁあああっ!」
「―――っ!」
ベビーベットの響平の甲高い泣き声で、あたしは目を覚ました。「…あ。」もう響平を生んでから1年も経つと、響平の泣き声一つでどれだけ眠くても目が覚めてしまうようになってた。
「おなか空いたのかい?」
ベビーベットから抱き上げても、響平は泣き止む様子がない。下んとこは膨らんでる気配も変な匂いもしないし、じゃぁやっぱりおっぱいだ。
当然のことながら駿平はいない。―――当たり前なんだけど。っていうかもしここに今いたら張り倒してるだろうけど。
あたしはベットに腰かけ、そのひざに響平を乗せた。一生懸命響平は泣きじゃくってる。そんなに泣いてたらもっとおなか空くだろーにねー。ま、だからこそ泣いてるのかもしれないけどさ。
空いてる片手で、マットレスを軽く撫でてみる。その感触は、なんとなしに冷たかった。
「……」
時計を見てみる。時計は、6時半を指していた。―――ふぅん、まだ6時半かぁ。あたしはパジャマの半分を開け、響平におっぱいを飲ませる。とたんに部屋が、静かになる。
うぐうぐ一生懸命飲んでいる響平。1歳になったとはいえまだまだこーいうのは赤ちゃんぽくて、頼りなさげ。食欲だけは人一倍なのか、落ち着くまではほんとーに睡眠不足で悩まされてた。
まだ…か。
ふと、今自分が思ったことを思い返した。変なの。ちょっと前(っていっても2年前になっちゃうんだけどさ)までは6時半は『まだ』なんて時間じゃなかった。
とっくに動き出して、とっくに一日が始まってた時間だった。
なのに、今は―――。
「……。」
勿論、それは仕方のないこと。あたしはまだ胸から離れない響平を見る。
こいつがいるんだもん。まだまだあたしは動けない。それは仕方のないこと。だってあたしは母親なんだし。
妙に冷たく感じるマットレスのシーツが、なんだか嫌な感じだった。
「―――…」
だぁ? おなかいっぱいになったらしい響平が、顔を上げあたしを見る。駿平に、父親にそっくりなその顔。
あんたのお父さんは今日も頑張ってるよ。あたしは響平に笑いかけようと、して…、逆に、喉の奥から熱いものがこみ上げてくるのを、抑えられなかった。
涙が、
出た。
「――あれ」
―――なんで?
でも、涙は、止まらない。知らずにあたしからはなれた響平は、この前やっと覚えた一人歩きを、よたよたとしていた。
なしてあたし、泣いてるんだべ?
なして。
「だぁ!」
急に大声を出す響平。ビクッ、と、思わず顔を上げる。
同時に、カチャッ、と音がした。
「ひびきちゃん、起きてる? 悪いけど朝ごはん作るの、手伝ってくれない?」
おねえちゃんの声だった。あたしは慌てて、涙を拭く。
響平が嬉しそうにおねえちゃんの側によたよたと寄っていく。
姉妹の誰よりもかまってくれるおねえちゃんに、響平は一番なついてるんだわ。「あっ、きょーくんおはよー。ご飯食べた?」おねえちゃんも嬉しそうに響平を抱き上げる。さすがに世話好きが性のおねえちゃんは、もう手馴れたもの。
「あっ、ゴメンゴメン。今着替えてから行くから。悪いけど響平連れてってくれる?」
「そう? うん判った。じゃ待ってるから」
にこ、っと笑っておねえちゃんは部屋を出て行った。…ふぅ。なんだか知らないけど、ため息が出た。
―――あたし、どうなっちゃったんだろうなぁ。
昔も色々考えたし悩むこともあった。
あたしはパジャマを脱ぎ捨て下着を付け替え、とりあえずの部屋着に着替えた。薄いトレーナーに着替える時、なんだか自分のおなかを見てしまったりした。
以前よりおっきくて、やわらかくなった胸(っていうかおっぱいがたまると痛いんだけどさ)。
ひづめによれば筋肉によって割れてたお腹も、今は触ってみても柔らかいし(体力なくなった気もしないでもないけどさ)。
昔は、自分の体が時々嫌になるときも、無くはなかったんだけど。
「………。」
―――んー!!
あたしは頭をぶんぶん力いっぱい横に振った。
今のあたしにいちいちそんなこと考えてる余裕はないべさ!
さ、今日も一日、
―――頑張んなきゃね!
「おはよぉ」
「―――珍しいね、あんたがこんな時間に起きてくるなんて」
ふぁああぁああ、といびき、じゃなくてあくびの音も高らか?に、寝ぼけまなこのひづめが降りてきたのは、あたしとおねえちゃんが朝ご飯を作り始めて20分ほど経ってからだった。
「うるふぁいなぁ。あたしだって早起きする時だってあるわよ。―――…ぁーあ」
思い切り伸びをして、ひづめは「あぅう」と足元になついてきた響平と遊び始めた。
「あ、そうだひづめちゃん、たづなちゃん起こしてきてよ」
「ふぁーい。響平もいく?」
「うぅー」
ひょい、ひづめは慣れた手付きで響平を抱き上げた。「ぅあ、ぅ」でも響平はのけぞったりさかさづりになろうとしたり言うことをきかない。「重いってば響平!」…それはあんたの抱き方が悪いんだべ、と思いながらもあたしはなにも言わなかった。
「ね、ひびきちゃん」
「――ん? なぁに?」
「明日、暇でしょ」
おねえちゃんはお味噌汁の味噌を箸でくるくる溶かしながら言う。
「暇なこた暇だけど」
ま、予定が無いって言うだけで、響平がいるからやっぱりなんだかんだで忙しいんだろうけど。
「じゃ、付き合って?」
「付き合う?」
「うん。実は明日、悟さんが家に来るんだけど」
はっ?
「悟さんが? 何しに?」
「ご飯食べに行きましょうって。それなら家で、ってお誘いしたんだけど。なんだかそれじゃダメみたいな言われ方されたから、お受けしたの」
―――それ、デートのお誘いじゃないべさ。あたしはちょっと脱力感を覚えて、かくっと力が抜けた。
「はいはい宜しいことですね、で、あたしに何を付き合えって言うんだべ?」
おねえちゃんは手元を見なくても料理ができるくらい慣れてるんだろうけどあたしはまだまだちゃんと集中してないと失敗するからおねえちゃんの顔なんて見てられない。だし卵一つだけで一苦労なんだから。
にしても、ふーん。悟さん、やっと具体的に動き出したんだぁ。
「だから。一緒にご飯食べに行こうって言ってるのよ」
はぁっ?
あたしはおねえちゃんの顔を見た。なーんの悪気もない、そんな顔で、「どうせご飯食べるんなら、大勢で食べるほうが美味しいでしょ?」……なんていってのけた。
「おねえちゃん、そりゃ悟さんに悪いんじゃないのかい?」
にっこりとおねえちゃんは屈託なく笑う。「何で?」
「なんでってそりゃ…悟さん、おねえちゃんにデート申し込んでるんだよ?」
「あら、そうだったの?」
きょとんとおねえちゃんは言う。どーしてこのひとは変なところで鈍感なのかなっ!
「でも、1回くらいいいじゃない。ね。ひびきちゃんもずーっと家にいるんじゃつまらないでしょ? どっか美味しいところに連れてってもらいましょうよ」
「…でもさぁ、それじゃ悟さんに悪い…」
「悪くないわよぉ」
っていうかおねえちゃんそれって可哀想過ぎなんじゃ…。
あたしが返事に困ってると、「おはよーぉ。ご飯出来てるの?」もう制服姿に着替えてるたづなと、「ふぁああ」まだ眠気が抜けきってないひづめが同時にリビングに入ってきた。
「おはよ。もうすぐできるわよ」
おねえちゃんが返事する。その時、「あぁ~あ」ひづめが嫌そうな声をあげた。「ひびきちゃん、響平オムツだよ」
「え? あ、ゴメン今…」
あたしが振り返ろうとすると、
「あー、ごめんねひづめちゃん、悪いんだけどひびきちゃん手が離せないの。なんどか手伝ってくれたでしょ、オムツの代え方判るわよね?」
おねえちゃんが遮った。
「え゛ーっ! あたしが響平のオムツ代えんのー!?」
途端にひづめはもっと嫌そうな声をあげる。
「いいじゃないそれくらい。たまにはやってあげなさいよ」
とたづな。
「そんならたづなちゃんがやってよー」
「あたし制服だし、汚れたら嫌じゃん。それにあんたが頼まれたんでしょ」
「ぶー」
後ろでは何かがやがややっている。「―――ね、いいじゃない? ひびきちゃん」ちょっとそれに気をとられていると、またおねえちゃんは誘ってきた。
「…だ、だからぁ」
「たっだいまー!」
っ! 玄関のほうから、元気な駿平の声。
「ほらおねえちゃん、駿平も戻ってきたし、ご飯にしよ、ご飯に」
あたしはなんとか話題をかわし、出来上がった卵焼きをお皿に盛り付けた。
「頂きまーす」
駿平も戻ってきたところに、父さん母さんも起きてきて、ではと朝食。
相変わらず駿平はこの家の中では凄い食欲を見せる。やっぱり若い男の食欲ってのは、…まぁユウも昔はいたけど、でもあいつは騎手志望だったから(当時は知らなかったけど)、あんまり食べないでいたからなぁ(今思えばね)。
「駿平君、お代わり食べる?」
おねえちゃんの一言に、
「あ、はいお願いします」
あっさりと自分のお碗を渡す。これで3杯目だってばさ。…ま、いいけど。
「響平はご飯食べたの?」
母さんが何気なくソファーで一人遊んでいる響平に目をやる。
「うん、朝起きてすぐに」
「離乳食もはじめてるんでしょ? そろそろ断乳、考えたほうがいいわねぇ」
「うん、まぁそりゃ、そうなんだけど」
「断乳って何?」
「おっぱいをやめてご飯だけ食べるってことよ」
「ふーん」
「でも泣き出すんですよ、離乳食だけで終わらせようとすると…」
「それは仕方ないさ。ひづめなんかもそりゃぁぐずってね」
「パパっ! なしてあたしを例に出すの!」
「だって本当だったもんさ」
和やかに?家族の雑談が続く。「ねぇ父さん」そんな中、おねえちゃんが父さんに話し掛けた。
「なんだい、あぶみ」
「明日、ひびきちゃんとご飯食べにいってきてもいいかしら」
「ひびきと?」
その一言に、家族全員の視線が集まる。「え~、あぶみちゃんとひびきちゃんだけで?」一番反応が早いのは、やっぱりひづめだった。
「だっ、だからおねえちゃん」
「そうよ。たまには家事を離れてゆっくりしてもいいでしょ♪」
「――どーせあたし部活で遅くなるだろうから、何でもいいけどさ」
たづながタクワンをかじりながら、反対でも賛成でもない意見を言ってくれる。「ただし、ご飯の用意だけはしてってよ」
「え~、ずるいよ、あたしだって外で食べたい~」
「ね、駿平くん。いいでしょ? ひびきちゃんちょっと借りても」
おねえちゃんはあたしやひづめのことばなんて全く無視しながら今度は駿平に話し掛けた。
「え、ひびきさんとあぶみさんと、二人でですか?」
きょとんと駿平。
「ううん。悟さんのお誘いなんだけど、ひびきちゃんも誘おうかと思って。―――ね、いいでしょ?」
「…へェ…悟さんの」
「おねえちゃん悟さんに悪いってば」
おねえちゃんがなに考えてんのか、よく判んない。
折角のデート、不意にすることないじゃないべさ。おねえちゃんだって悟さんのこと悪からず思ってるくせに。
あたしは駿平を見た。駿平が断ってくれれば、おねえちゃんも諦めてくれるかもしれないし、それに。
…それにあたしは…。
「いいじゃないですか。ゆっくりしてきてください」
だけど駿平はあたしの期待も裏切って、にこにこおねえちゃんに愛想笑いなんか浮かべたりした。
「~~~」
「良かった♪ これで決定ね、ひびきちゃん」
「あたしや父さんもいるしね、響平のことは気にしないでもいいよ」
母さんまでバックアップなんかしたりする。
「だ、だからぁ」
「こういう仕事やってるとあんまりひびきさんにゆっくり食事にもつれてあげることも出来ないし」
「!」駿平が、妙なことを言う。
「だから、楽しんでおいでよ、ひびきさん」
―――多分それは、駿平にとっては優しい気配りのつもりなんだろうけど。
「判った」
あたしは小さく、呟くように言った。
「精一杯、楽しんでくるべ!」
あたしは今の駿平のことばで、なしてさっき、訳も判らず泣いたのか、判った気がした。
―――あんたの優しさは、多分嬉しいものなんだろうけれど。
『今の』あたしは素直にそれを―――受け取れない。