熱くて、温かい夜
1 熱い夜・1~キッチンにて~
真っ暗な室内―――、何も見えない。
いや、今のあたしには何も見えないほうがいい。
聞こえるのは、今ここを襲っている台風の風の音と、やかんから噴出される水蒸気の音……そしてもう一つ。
他に音はない。聞こえてくるその音さえ、まるで遥か遠くから聞こえてくるような―――そんなおぼろげな感じで、 あたしには全く聞こえていないも同じだった。
あたしがはっきりと聞き取れるもう一つの音。それは、鼓動。
弾けるんじゃないかと思うほど、強い、熱い、あたしと、……そして駿平の―――……。
「ひびき……さん?」
すぐ近くから、駿平の声。「―――な…に?」あたしは返事をするのもやっとで。
「オレ…オレ―――……」
駿平が何かを言おうとしてたけど、駿平の声は、最後まであたしに聞こえなかった―――……。
「―――!!!」
目を開いた瞬間、あたしは飛び起きてしまった。
「な…、な…? なんだべさ、今の夢―――」
体中が汗でぐっしょりだ。まだ胸がドキドキ激しく鼓動を打ってる。
今のは夢だよね? 必死に自分に言い聞かせる。
時計を見ると、まだ3時半だった。起きるには、早すぎる時間だ。
時計を見て時間を確認すると、「―――…」途端にあたしは現実に引き戻されたみたいに落ち着いていった。鼓動も徐々に感じなくなっていく。
はぁ……と、一つ息を漏らす。
まるでフラッシュバックみたいに、鮮明な夢―――…。思い出そうとすると、鏡を見なくても顔が真っ赤だと判るくらい、ほっぺたが熱くなった。
『あの日』から、もうどれくらい経ったろう。駿平とあたしが……そこまで思って、あたしは顔から火をふかせた。
あの嵐の夜、ムリを押して帰ってきてくれた駿平。
『「だって千歳まで帰ってきてて―――その日のうちにひびきさんに逢えないなんて、辛すぎるよ」』
こいつの馬鹿さ加減に、怒った。けど、……とても嬉しかった。
「!」
またビジョンが急に蘇る。
停電のせいで、真っ暗闇な厩舎内。襲い来る台風。
『「暫く、こうしてたいよ。こうやってひびきさんに、触れてたい」』
子供みたいなこと言って、甘えてなんて来て。―――いつもなら、無視する筈なのに。
けど、どうしてだろう。その日は無視できなかった。駿平から離れられなかった。……側に、いたかった。
自然と、どちらともなく抱きしめあって―――、自然に、キスをして。
とっても、体が熱かった。……こみ上げてくる、この感情がなんなのか、自分でも判らずにいたとき―――、
『「! …駿平」』
『「あ……、その……」』
多分、嫌じゃなかった。素直にそう思えた。こいつなら。―――からだの奥からこみ上げてくる感情は、きっと……あんたを、求めてた。一つだけじゃなく、全ての意味で。
『「おかえり。……よく帰ってきたね」』
―――その想いは、もう、止められなかった。
なのに。
あの馬鹿ときたら、それが全てになってしまった。
仕事中にまでそれを持ち込んで、平気な顔して。
カッとなった。信じられなかった。そんな駿平が判らなくなって、付き合うのをやめようかとも思った。
けど、駿平は気づいてくれた。――ったく、あんな当たり前のこと、なしてすぐに気づかないんだべ? すぐに気づいてくれれば、あんなに長い間喧嘩になることもなかったのに。馬鹿なんだから。
男のクセに、主体性がなくて、優柔不断で、考え方も甘い坊ちゃんだし。考えてみれば、短所ばっかり目立つ奴で。あんなんで将来、牧場をいっしょにやってけるのか、実際のところあたしは不安。
けど。―――だけど、時々ではあるけど、意外なところで芯の強いところも見せてくれたりして。結構、負けず嫌いで。いっしょにいると……楽しくて。
今のとこ、自分の隣で同じ未来を見てる、って言うより自分の後ろを必死についてきてる、って言うのが駿平の印象だったりするけど。
「んー……」
もう寝ようと思っても、目がさえて眠気なんて起こらない。それに二度寝は必ず寝過ごすもんだわ、とあたしはもう起きてることにした。ベットから抜け出し、部屋を出る。
とりあえず下に下りて、シャワーでも浴びよっか。夢のせいで全身汗でぐっしょりだし、眠気覚ましにもなるっしょ。あたしは2階から、1階に向かった。
「……あら? どうしたの、ひびきちゃん」
1階についた途端、視界が急に明るくなった。不思議そうに訊ねてくる声―――おねえちゃんだ。
「あ、ちょっと変な夢見ちゃってさ。おかげで目、冴えちゃって。二度寝するにも中途半端な時間かな、て思って。だからシャワーでも浴びようかな、ってさ」
あたしはとりあえずそう説明した。でも、ほんとに説明口調で、これじゃちょっとわざとらしいかもしんない。ま、ウソじゃないから、気にすることでもないんだけど。
「ふぅん。変な夢ねぇ。どんな夢だったの?」
おねえちゃんは可愛らしく微笑みながら聞いてくる。ゆるゆるのパーマみたくなってるおねえちゃんの髪。
改めてみると(普段もそう思ってるけど)おねえちゃんはほんときれい。女らしくって。……あたしなんかとは、全然違う。
「どうしたの、ひびきちゃん?」
「う、ううん! 別に何でもない。ところでおねえちゃんこそ、こんな時間にどうしたのさ?」
「トイレ」
「あ、そう……」
話題を逸らそうとしたのに、呆気なく失敗したみたい。これじゃ、話が続かない。「ねぇ、変な夢って?」
おねえちゃんは無邪気な顔で話題を戻してしまう。でも、あんな夢……絶対に説明できる筈ないべ!
「えと、その―――忘れちゃった。あ! シャワー浴びてくるね」
背を向けたあたしに、おねえちゃんは呼び止める。
「眠気覚ましに、とっておきのコーヒー淹れてあげるわ。おねえちゃんもなんだか、目が冷めちゃったから」
「ありがと。じゃ、すぐあがるから」
言ってまた背を向けようとした時、一瞬、優しく言ってくれたおねえちゃんの顔が、なんだか疲れているように見えた。
けどあたしはそのときは、深く気にしもしなかった。
しゃあぁああ……。
ぬるめのシャワーが、からだの緊張をとりほぐしてくれる。あたしは椅子に座って、まじまじと自分の体を見つめてみた。
あちこちが筋肉ばってて、(馬の育成調教のためには仕方ないんだべ)まるで男みたいな体。
おねえちゃんとは全然違う。
そういえば、お風呂でよくユウにいわれてた。
「もう少しおっぱい大きくならねえと、ムコのきてもないぜ?」
………。
わ―――っ!!! 何考えてんだあたしは!!
この体は仕事のためだから仕方ない、じゃなくて。あたしは馬が好きでこの仕事を選んで、結果こうなったんだから、別に恥ずかしく思う必要もないはずだべ? そうでしょ?
どうしたんだろあたし……。普段はこんなこと、全然思わないのに。
「!」そこまで思ってあたしはハッとなる。何考えてんだ、ほんとに!
もうみんなあの夢のせい! 鏡に映ってる、やっぱり真っ赤になっている自分の顔に、あたしはシャワーのお湯を浴びせた。
「あら、ほんとに早かったわね」
居間に入ると、おねえちゃんが素っ頓狂な声をあげた。なんか驚いたみたい。
「シャワーだもん、あたりまえだべ?」
「そう言えば、そうね。……もう少し、待っててね」
すぐに台所から、コーヒーのいい匂いが立ち込めてきた。おねえちゃんがコーヒーをなみなみとカップに注ぎ、テーブルに差し出してくれる。「はい、どうぞ」
「ありがと」あたしはすぐにそのコーヒーを口に含んだ。……とても苦かった。でも、その割には美味しかった。「どう?」とおねえちゃん。
「うん、美味しい」
「良かった。苦い割には、なかなかイケるでしょ? たづなちゃんの受験の時にも作ってあげたのよ。名づけて、眠れないコーヒー。なんちゃって」
ころころ笑いながら、おねえちゃんは自分もコーヒーを口に含む。あれ? とあたしは思った。あたしはともかく、こんなの飲んだらおねえちゃんまで眠くなくなるんじゃないかい?
「ねぇ、ひびきちゃん」
そんなあたしの素朴な疑問をよそに、おねえちゃんはちょっと神妙な顔つきであたしを見る。
「自分に好きな人がいて、そのひとも自分を好きでいてくれると、いいわよね」
「え? おねえちゃん、何言ってんのさ」
おねえちゃんは意味ありげに、にっこり笑う。
「この頃のひびきちゃん見てると、そう思うの。ひびきちゃん、随分変わったわ。―――いい意味でね。こないだだって、駿平くんのために料理を作ってあげたり……」
「あっ! あれは別に、深い意味はなくて」
「ただ、駿平くんを喜ばしてあげたかった?」
上目遣いに見つめてくるおねえちゃんの視線。柔らかなんだけど、どこか淋しげな……いつものおねえちゃんとは、なんだかちょっと違う気がする。こんな風に聞いてくるなんて、今までなかったのに。
あたしは知らずのうち、また顔が赤くなるのを感じてた。
小さく、あたしが頷くと、おねえちゃんは嬉しそうににこっ、と微笑む。
「そういうの。いいわよね」
「おねえちゃん?」
やっぱり変だ、おねえちゃん。あたしがどうしたの、と聞こうとした矢先、おねえちゃんは立ち上がった。
「んー…。やっぱおねえちゃん眠くなってきちゃった。何度も飲んでると耐性が低いわね~。おねえちゃん、眠るわね。―――ひびきちゃんは、ここにいる?」
あくびめいた仕草をして見せ、おねえちゃんはあたしを見る。「あっ、じゃああたしも部屋に戻るわ」カップを手にとって、あたしも立った。
「じゃ、電気消すわよ。―――お休み。ひびきちゃん」
「うん、お休み」
パチン、と音といっしょに台所の明かりが、消えた。
―――部屋に戻って。
コーヒーを一口飲んで、それを机に置き、あたしはベットに倒れこんだ。
おねえちゃんの作ってくれた「眠れないコーヒー」(そのまんまだ)は凄い効き目で、横になっても眠気の「ね」の字も起こる気配はなかった。
―――自分に好きな人がいて、そのひとも自分を好きでいてくれると、いいわよね―――
ふと、おねえちゃんの言葉があたしの中をよぎる。同時にあたしは、ちょっと前に駿平と喧嘩した時、母さんに言われた一言も、何故か思い出していた。
―――あんた、駿平くんに甘えすぎでないかい。
なして、と聞き返すと、言われた。
―――あんた、駿平くんを自分のペースに合わさせよう合わさせようとはするけど、あんたはあの子のぺースに、ちょっとでもあわせる気あるのかい?
―――その気もないのに自分の期待ばかり押し付けるのは、甘えてるんでなければ何なのさ。
悔しかったけど……言い返せなかった。その通りなのかも、と思う自分がいたからかもしれない。
駿平が好きだから。だから、もっと、もっと立派になって欲しい。将来もずっといっしょにいたいから……それくらいの男に、なってほしい。
―――でも―――。
ぎゅっ…と自分の体を抱きしめる。夢の余韻が、まだ体には残っている。
「………」
考えるだけで、全身火が立ちそうだったけど。―――同時に、とても切なかった。
―――ひびきちゃん、ずいぶん変わったわ。
―――……そういうの、いいわよね。
おねえちゃんの言葉が、またよぎる。あたしはもう一度、自分の体を抱きしめた。
『「……ひびきさん……」』
以前、駿平がそうしてくれたみたいに―――優しく。