思い返すようなほど時は過ぎて
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―――もう、思い返すようなくらい、時間が経っちゃったんだね。
昔、あんたに言った台詞、あたしはまだ覚えてる。
『「半人前だって判ってるんなら―――」』
そう、あれは台風が来てた日だった。細かい日時までなんて、覚えちゃいないけどさ。
でもあたしは忘れられないの。
『「いっしょに一人前を目指せばいいでないの。」』
何でかなんて、説明なんかしたくもない。理由なんて、そんなの、決まってるっしょ?
『「甘えてるんでないよ、ばか。」』
……思い出そうとしなくたって、鮮明に浮かぶ情景。
『「おかえり。―――よく帰ってきたね。」』
だってあの日に…あたし達……。
―――初めて、本当にお互いを判りあえた気がしたんだもの。
「『ひびきさん』」
……でも、あんたはそれを覚えていてくれてるの?
あたしと同じように、思い出そうとしなくても、ちゃんと?
―――ねぇ、本当に今でもそう思ってくれていると信じていいべ?
あたしは、あんたにちゃんと想われているって……。
「ひっびっきちゃぁーんっ!」
今日も渡会家は朝から夜まで煩い。
「はいはーい! ちょっと待ってって」
あたしは肩越しまでちょこっと伸びている髪を軽く一つにまとめ、下から聞こえる声(多分ひづめだろう)に返事した。
「泣いちゃうよ響平―!」
たづならしい声も聞こえてくる。あぁもうちょっと待ってってば!
「うぇええぇええあぁあああぁあ!」
けどあたしの願いも空しく終わったみたいだった。下から―――泣き声が聞こえてきたから。
「あぁはいはい判った判った今いくべさっ」
慌てて階段を下りて、居間に走るあたし。居間には…泣きまくってる響平と、それにうろたえている役立たずなひづめ・たづながいた。あたしは慌てて響平の前に座り込み、軽く抱いた。それだけで響平はちょっと泣き声を緩めてくれる。
「お腹空いたんだね、……父さんはいない?」
きょろきょろとあたしは周りを見渡す。
「事務所に母さんといってる」
とひづめ。
「駿平は?」
「まだ帰ってきてないよ」
といったのはたづな。
そうか、男手はいないんだな。ならいいや。あたしは着てたシャツのボタンを上半分だけはずした。「ちょっ、ひびきちゃんここでやる気!?」たづなが大声を出す。
「いいでしょ別に。男いないし」
たづなが慌てて回れ右をする。あたしは胸の右半分だけを出して、響平の口に当てさせた。ぷに、と口に当たったとたんに、響平は凄い勢いで口にくわえて、飲みだす。
「ったく非常識よ、こんなトコで。信じらんない」
「家ん中で子供におっぱいやって何が悪いのさ。ねー、響平」
「あいかわらずだけど凄い勢いで飲むね、こいつは…」
一生懸命あたしの腕ん中でおっぱいを飲んでるこいつ(響平)。
あたしと駿平の、いつのまにかできちゃったコドモ。
いつのまにかっていう言い方は変かな、だって心当たりが一つしかなかったから。
色々あって、産むまでにほんと色々あって、産んでからもまた色々あって。
「あら? ひびきちゃんここでおっぱいあげてるなんて珍しい」
…もう、こいつが生まれてから1年も経つ。
たっちもできるようになったし、よたよたとながら歩くのもできるようになってきた。…まだまだ、こんなふうにおっぱいなんか元気に飲んでる赤ん坊だけどさ。
自分が母親になるなんて信じられなかったし。
実際時々、今でもなんか夢みたいな感覚が襲ってくる時もあるけどさ。
「あぁあ、幸せそうな顔しちゃってるよコイツ」
でも、やっぱりあたしは母親になったんだなぁって自覚できる。
いっぱい飲み終わってお腹いっぱいになったのか、胸から口をはずして、抱いてる腕から響平は自分で降りた。
「こうしてるときは天使なのにね」
あたしはティッシュで自分の胸と響平の口を軽く拭いたあと、シャツを元通りに着なおす。
知ってる? 子供産んだだけじゃぁ母性本能ってあんまり沸いてこないらしいんだってさ。
赤ちゃんにおっぱいやってるときに、初めて…そーいうのって沸いてくるんだって。
「あぁ、うぅ、おぉぉお」
響平がひづめを相手に遊んでいる(いや、遊ばれている?)。
「こら、響平、痛い!」
1年間、どたばた続きで、結局牧場の仕事にはまだ戻れなくて。
でも、響平はまだ小さいし、いくらおねえちゃんがいるっていっても、甘えてるわけにはそろそろ行かなくなっている。
何より、あたしは母親だし…、そんなことは言ってられなくって。
でも、昔みたいに育成の仕事に戻りたいなぁ…って。
「ひづめちゃん、遊ばれてるわよ響平ちゃんに」
―――そんなことも思ったりしてるけれどさ。
「あははは! ばっかみたいあんた」
「あ、ひびきちゃんちょっと手伝ってくれる? 今から家のご飯作るから」
あぶみおねえちゃんが何気なくあたしに聞いてくる。
「う、うん判った…」
―――でも、そんなこと言えないのも……実情なんだよね。
「たっだいまー」
お味噌汁が丁度いい具合にできてきた頃、駿平の声が玄関から聞こえた。
「あ、帰ってきた」
時計を見ると、もう7時だった。
「おかえりー、ご飯丁度できたトコだよ」
「おっ、きょーへー。もうご飯食べたのか? おっ、そーかー」
「あぁうぅ、ぱぁぁぱぁ」
駿平は居間に入って、響平とじゃれ始めた。駿平はなんだか凄く子煩悩らしくて、よっぽど響平が可愛いみたい。そりゃ自分の子なんだし当然なんだけどさ。どんなに疲れてても響平の顔見るとぱっ!と明るくなるし。
響平も1歳になると、言葉としては判らなくてもなんか単語らしきもの?をつぶやく時もある。「まんまぁ(ご飯)」とかね。
それに、「ぱぁぱぁ」とか…どうやら子供にとって言いやすい単語らしいんだわこれが。
「そうだぞ、ぱぁぱだぞぉ」
やっぱりぱぁぱっていうのはパパ、父親のことなんだろうね。それを言ってもらえるのが駿平にはとっても嬉しいことらしい。あぁ、もう子供っぽいんだから。
ちなみに「まぁま(母親)」ってのは発音が難しいのかまだ言ってくれない・・・ま、そんなことはどうでもいいんだけど!
「ほら、いつまでじゃれてんのさ。ご飯できたよ」
「あ、はいはい。じゃ、響平ちょっとまっててなー」
「ぅぅううぅ」
あたしとおねえちゃんが出来上がったお味噌汁とオカズとをテーブルの上に置く。駿平とたづなとひびきは、とりあえず響平を居間に残してこっちにきた。「ひびきちゃん、悪いけど父さんと母さん呼んできてくれる?」
「あ、うん判った」
おねえちゃんがご飯をよそいながらあたしに頼んでくる。あたしは軽く引き受け、事務所のほうに足を向けた。
「父さん、母さん。ご飯できたよー」
これがあたしの日常。
「あぁ判ったよ、今行くからあんたたち先に食べてなさい」
「はーい」
響平の世話して、おねえちゃんの手伝いして、時たま事務所の手伝いもするけれど。
「ねぇ駿平、ご飯食べたら響平をお風呂に入れてあげてよ」
「判ってるよ」
これがあたしの日常。
「響平シャンプーキライなんだよねぇ、あたしこの前始めてやったけどすっごい抵抗するんだもん」
「シャンプーハットでも買ってきたほうがいいかしら? ひびきちゃん」
「じゃ、今度買ってくるべさ」
以前のあたしはこんなに毎日家の中にいなかった。
おねえちゃんの手伝いだって手が空いてても中々しなかったし。
「でも気持ちよさそうなんだよ。ほんと嬉しそうに笑うもの」
子供なんて、考えもしなかった。
駿平とそうなっても、できるだなんて思ってもいなかったし。
「駿平君はもう立派なお父さんね」
勿論、受け入れるしかなかった。堕ろすなんて考えもしなかったし。
そうなってからあたしの日常は、180度以上にがらっと変わってしまった。
「ねぇひびきさん、今度は親子一緒に入らない?」
駿平がにこにこ笑いながら聞いてくる。「あ、うん……そーだね。」はっきり聴いてなかったあたしは、曖昧に返した。
「何言ってんのよ! 夫婦だからって!」
たづながまた奇声をあげている。「あぁもう仲の宜しいことですわね」ひづめが首をくねくね(?)振っている。
―――そう、これがあたしの日常。
文句なんかきっとつけるところもないんだろう。
優しい父親になってる駿平。理解のある父さんと母さんと姉妹。
何の不満もないはずの、
―――あたしの毎日……。
「……だったんだよ、凄いよね」
「…えっ?」
食事もその後片付けも終わって、各々がそれぞれの部屋に引き上げた、そんな時間。もう時計は…10時を回ってるわ。
「何だよ、聞いてなかったの?」
駿平がきょとんと言う。パジャマに着替え終わって、もう完全にリラックススタイルって感じ。
「あ、ゴメン…何の話しだったっけ?」
「だからー。この前のダービーの話だよ。……まぁそれはいいけど。疲れてるの?」
ベビーベットですやすやと眠りについている響平。さすがに1歳になると一度寝付くともう朝まで目を覚まさない。
ちょっと前まで3時間おきにおっぱいやったりぐずってる響平をなだめたりで大変だったんだけどさ。この頃は落ち着いて寝れるようにもなった。
あたしたち二人で、こんな風に話せるようにもなった。
「別に。そんな訳じゃないよ」
「ならいいけどさ。…ふぁあ。もう寝ようっか」
駿平は大きなあくびをかきながら、ベットのよこにおいてあるランプに手を伸ばそうとする。
「もう寝るの?」
いかにも眠たそうな駿平に、あたしは思わず口から出てしまう。「!」
「うん…ダメ?」
でも駿平はなんにも気づいた風でもなさげに、とろんとした目で返してきた。
もう寝ちゃうの?
まだ、10時なのに?
そう思ったけど…でも、駿平は明日休みじゃないし。
「ううん…いいよ。寝ようか」
パチン、と駿平はランプを消す。部屋が、とたんに真っ暗になる。
仕方ないからあたしも横になった。すぐに隣の駿平のベットから、寝息が聞こえてきた。
「………」
――――この頃、駿平はいつもこんな感じ。
夜になってある程度の時間がきたら、すぐに寝ちゃう。
勿論、疲れてるんだろう、仕事も頑張ってるんだろう。
それは凄く嬉しいし、何よりもそれを頑張って欲しいとも思う。
「…ぁう…」
響平の寝言が聞こえる。「…うん…?」それにつられたのか駿平までなんか呟いてる。
多分あたしはとても幸せなんだろう。
こんなこというのは、きっといけないこと。だから言わない。
目が暗闇に慣れてきて、駿平の顔が僅かながら見えるようになってきた。
あたしはそっと近づき、駿平の真横に横たえる。
「…ん? ひびき…さん?」
あたしに気づいたのか、ねぼけながらも駿平は腕枕なんかしてくれた。「おやす…みぃ」そのままぐっすりと眠りに陥ってしまう。
見慣れた寝顔。間の抜けた、変な顔。
起こしたら、可哀想だよね…。
あたしは音をなるべく立てないように、駿平の顔に自分の顔を近づけた。
「………。」
今のあたしに、不満なんかないはずだべさ。
誰が見たってそういうに違いない。
だけど、なんとなく心に穴があいてる感じがするのは何でだろう?
『―――今でも、あんたはあたしをちゃんと想ってくれている?』
こんなこというのは、きっといけないこと。
あたしは幸せなんだから。……そう信じていていいはずなんだから……。