My Old Lover, My Old Injury
あたしは、きっとあたしから逃げていた。
「ねぇ、一つだけ、我が儘言ってもいいかな」
「オレに…叶えられることなら」
ずっとずっと立ち向かっていると思っていたけど―――
「キスして欲しいんだ」
「たづな―――…」
でも、弱い心から。強くみせるばっかりで気づこうとしなかったあたしのホントの心から、あたしは逃げてた。
「―――判ってる。ゴメン。あの時、あんたにはあたし、何もしなかったのに」
だけど今なら。
「そんな困った顔しないで。―――あたし、我が儘だって言ったでしょ? 言いたかった、それだけだから」
弱さも自分だと、やっと認められるようになったから。
「好きだったよ。あんたのこと。お互い、頑張ろうね」
本当の笑顔を、やっと出せるようになったから……今は。
もう何年忘れてたかも、思い出せないくらいの―――心からの、笑顔を。
昔は、当たり前のように出せていた、素直な心も……。
RRRR…RRRR…
「あぁああ煩いッ。もう書き終わるわよッ」
『駿平は、病室に遠慮がちに入ってきた。
「ただいま。」
「あ。おかえりー」
ひびきは軽く応え、出迎えた。』
RRR…RRR…
原稿用紙の、最後の頁の数行を考えあぐねている最中に、電話なんかかけられても出れないわよ!
と、思っていても容赦なく催促の電話はかかってくる。
ピコ。「『ハイ。渡会です。ただいま留守にしております。 ご用のある方はピーという発信音の後に…』」電話が留守電に切り替わると、「せんせい~! 勘弁してくださいよぉ! 今日の昼がタイムリミットなんですよー!」と、半ば泣き声が録音される。
「判ってるわよ」
ふかしているタバコを、もう山盛りになっている灰皿に突っ込み、煙を吸いながらも、あたしはその電話に出ることは、なかった。
どうせあと1時間もすれば、呼んでもいないのに電話をかけてきた奴がおしかけてくることはわかっているから。
『駿平は複雑な面持ちでひびきと向き合う。ひびきは、その駿平の様子を、落ち着いて見つめていた』
う~ん…これでいいかなぁ…。
『 「ヒコ…シンガリ負けだったよ。」
重く、駿平は報告する。
「知ってる。」
ひびきはまたも軽く、答えた。
駿平の拳が、固く握り締められているのを、ひびきはしっていたけれど。
大仕事を終えたばかりなはずのひびきは、自分がどうすればいいかを、もう知っていた。』
腱鞘炎になりかけの手が痛い。でも、後もう少し書けば、完成する。
『 「オレはもう寂しいやら哀しいやら悔しいやら…だけど嬉しいやらで…」
肩と同時に、駿平の声が震えだした。
駿平は我慢しきれずに、涙もこらえきれずにいた。
心の堰が壊れてしまったのか―――ひびきは、優しく駿平に手を伸ばした。
大声で泣き出す駿平を、その母親のように優しく見つめながら…』
「~~~~…ぅ」
愛用の万年筆を、コロリと転がし、眼鏡を外した。
最後に『第一部 完』と書いた後で。
「つっかれたぁ~~~…。コーヒーでも飲むか…」
やっと、あたしの抱えていた仕事が、一段落を遂げた。
あたしが、ほぼ5年間の小説連載なんかをつづけることが出来たのも、まぁ悔しいけれどあたしの実家と家族のおかげだろう。
あたしこと、渡会たづな。
ペンネーム『わたらいたづな』(めんどくさいのでひらがなにしただけだけど)は、これでもまぁ一応、小説家といわれるよーなお仕事をさせていただいてるの。
「徹夜のしすぎで肌がボロボロ…」
東京の大学を出、その就学中に投稿した作品がナントカという(失礼ねコレも)賞を引き当ててくれて以来、あたしは北海道には殆ど戻らず、東京にて生活をしてる。
正直なとこ、東京での生活はあたしの肌にあっていたの。意外でもあったけど。
5年前から6年前。『ぎゃろっぷ』という雑誌の編集さんから、「書いてみませんか?」とお誘いを受けた。
「………」
新連載の小説の題材を探していたときのことで。「何を?」と答えるとその編集は今でも忘れない、小憎たらしいくらいの爽やかな笑顔で言った。「先生の実家のお話しですよ」
どうやらその編集は、あたしが時々話す実家での愚痴話に商業的な営利を見つけたらしかった。今となってはどうしてかは忘れてしまったけど、あたしは二つ返事で「ハイ」と答えてしまったんだ。
お湯を沸かし、フィルターにそれを通す。カフェインの混ざった湯気が、あたしの目を潤してくれる。
(ま…あの時は売れてもなかったし…入る仕事は受けるしかない立場だったんだけどさ…)
あたしは小説の中にでもウソはつきたくないタイプなので、牧場名や姓などを除いて、ほぼあたしの知っているとおりに書いていた(もちろん実家の許可は得たけどね) 。
小説の名前は「じゃじゃ馬グルーミン☆UP!」というもの。
その小説は、どう間違ったのか、書いた本人にも驚きの売上を示してくれて。
「担当が来るまで眠りたいな…((でもどうせたたき起こされるだろうしな))…」
なんと5年間の連載という長期連載をはくしてしまい、たった今、その最終回を書きあげたところだった。
この成功で、あたしは小説家としては、まだまだ未熟ながらも、その立場を確立することが出来たようで。
毎日の消耗の結果と引き換えに、あたしはいろいろな物を手に入れることが、出来ていた。
「………」
それにしても疲れた。
31歳という年齢も味方しているのか、この頃疲れの抜け方がとみに激しい。
ほんの数年前までなら、徹夜なんて平気なくらい元気でいられ、作品にもその勢いがあったのに。
((仕方ないっちゃ、仕方ないけど))
コーヒーを飲み干しても、その眠気と疲れは癒されない。やはり2晩の徹夜は効いたらしい。
ふぁああ…。ネムイ。
でも、とりあえず担当が原稿を取りに押し寄せてくるまでは起きておかないと―――。
あたしが2杯目のコーヒーを作ろうと、もう一度キッチンに向かったときだった。
ピーンポーン。
インターフォンが鳴った。((考えてたより早い襲撃ね))あたしはボサボサの頭を掻きながら、玄関に足の向きを変えた。
「ハーイ」
ドアを開けると。
「よっ。そろそろ原稿上がったかなぁとおもって」
そこに立っていたのは、担当編集ではなかった。
「なんだ…あんたか」
そこに居たのは、現在のあたしの―――彼氏、ゴウだった。
「何だはないだろ何だは。人がせっかく逢いに来たって―のに」
「煩いわね。原稿上げの直後は機嫌悪いって知っててそういう台詞言ってるわけ?」
彼こと、ゴウは玄関に入った途端、リビングに(招かれてもいないのに)どすどすと物知り顔で入り、ソファーに座り込んだ。
「知ってるさ。誰よりもな。その機嫌を俺が癒してやろうかと思ってさ」
「……」
「冷たいモンでもなんか食べにいこーぜ。お前、好きだろ」
「担当が来て、少し寝たら、してもいいわ」
「じゃ、俺も一緒に寝ようかな」
「機嫌悪いって言わなかった?」
「愛する俺に包まれて眠った方が幸せだろー?」
「……」
あたしは言葉を失う。
まぁとり合えず、こいつが今のあたしの彼であることは間違いない。
「書き上げたんだろ? 担当に渡す前に、読んでもいいか?」
ふざけた顔から一転、ゴウはテーブルの上に無造作に置かれた原稿に気づくと、興味深げにその原稿を手に取った。
「好きにすれば」
あたしは断る理由もないから、さらっと言う。やっぱりもう一度コーヒーを飲も。あたしはキッチンに再び足を向けた。
「―――」
目を向けると、もうゴウは真剣に、まさに食い入るように原稿を読み始めていた。((コレが目的だったんじゃないの?))
世の中って、不思議なこともあるもんよね。
あたしはつくづくそう思う。
だって、こいつは、あたしの今書き上げた作品の話をもちかけたヤツ―――初代担当編集だから。
『「先生の実家のお話しを、小説として書いてみませんか?」』
そう言って、コイツはあたしに近づいてきたんだ。
仕事としてのパートナーとして、確かに信頼もし、尊敬もした。―――けど、恋愛に発展するなんて思いもよらなかった。
異性を好きになったのは、生まれてからこれで3度目。
一人目は、不器用なバカを。
二人目は、勘違いしたメガネを。
三人目は、小説バカで。
((妙なヤツばっかだわね))
そう思わずには、まさにいられないんだけど。
「なぁ、たづな。ここの書き方なんだけど、ちょっとおかしくないか?」
「ん? 今更直しなんて…」
ゴウはちょいちょいと人差し指であたしを呼び、原稿用紙のあるところを指差す。
「ここはさぁ、どうせならユウキを怒らせたほうが面白いと思うんだけどな」
「えぇ? やだよ面倒くさい。―――んー…でもそうかもしんないわね」
あたしはちらりと時計を見る。
編集がくる予定の正午(タイムリミット)まであと50分。
「判った。リテイクしてみるわ」
眼鏡をかけなおし、あたしは仕事用の机に座りなおした。
そのあたしを、満足げにゴウは見ている。
その視線をうっとおしく思いながらも、でも、頼りがいを感じないわけでもない。
あたしは万年筆を、握りなおした。
『ユウキは駿平を見ずに、荒々しく口にした。
「だったら尚更だ。オレはお前がやってきたことなんか認めやしないからな。」』
作者とその担当編集は恋に陥りやすい。
この話しは、いわば業界では定説となっているコトらしいの。
あたしも、その話を聞いたときは、鼻で笑ったものだったけど。でも自分自身がそうなった今では、言い返すことも出来ない。
「ねぇ、一応読んでみて。面白い?」
確かに、編集ともなると、生活の殆どを共に暮らすときもある。原稿の上がりが遅いときなんかは特に。
プライバシーもへったくれもないって時だってあるのよ。
そして物語を共同で仕上げていく。そのときに感じる信頼が、愛情に変わっていっても、何の不思議もないのかもしれない。
人事の異動とかで、今はゴウはあたしの担当はおろか、連載雑誌『ぎゃろっぷ』にさえ籍を置いていない。だけど、それでもいちばんあたしのこの作品を理解してくれている人だ。
担当を降り、『ぎゃろっぷ』から去っても、あたしは何度もゴウに相談し、作品作りの糧にしてきたの。
小説家『わたらいたづな』にとっては、なくてはならない人物。―――確かにそれは、否定できないのよね。
「うん。これでいいんじゃないか? 担当も一発OKだな」
嬉しそうにゴウは笑う。
「っていうかこれから直しっていわれてもムリよ」
でも、『渡会たづな』としてはどうなんだろう。あたしはこの頃、そんなことを思ってしまう。
だって―――…、でも、こんなこと。
誰かに話したとしても、仕方のないことなのだけどね。
ピンポーン…再び、インターフォンが鳴った。
「ほら、おでましだ」
信頼=愛情。愛情=尊敬。昔は確かにそうだった。
だけど、今はちょっとね…。
「―――はぁい」
あたしは玄関に走る。
「センセィ~~!」
留守番と同じ声が、ドアを開けたときに悲鳴をあげた。
「ちゃんと出来てるわよ。そんな泣きそうな声出さなくたって」
毎日の消耗と引き換えに、あたしはいろいろな物を手に入れてきた。
一つは、社会的立場。
一つは、ちょっとあけっぴろげだけど、お金。
そして一つは、……オトコ。
多分、回りから見たら、きっと羨ましがられるんだろう。事実時々電話で話す妹―――ひづめからは、「あたしもあんたみたいな生活がしてみたいよ~!」なんて毎回のように言われてる。
努力もしたし。自分も磨いてきたわ。
誰に何を言われるでもない生活を保ってきた。
手に入れられないものが咄嗟に浮かばない、そんな生活をしてきたから?
「では、失礼します」
この頃ぽっかりと、あたしの胸には穴があいているような気がするの。
気のせいかもしれないんだけど。
気のせいかもしれないんだどね――――…。
「はい、ありがとうございました! ではコレ、急いで持っていきますので!」
編集はやってきて1時間もしないうちに、すぐに家を出て行ってしまった。
「編集って大変ね」
「そりゃそうだ。気まぐれなセンセイ方をなだめすかすもの仕事のうちだしな」
経験者は語るとでも気取ってるつもりかしら。ニヤニヤと笑いながらゴウは言う。
「誰かさんが回してくれた仕事のおかげで、5年間大変だったわよまったく」
「相変わらず皮肉屋だな」ゴウはニヤニヤしつつも、あたしの肩に手を回した。「コレで暫く休めるんだろ」
「おあいにくさま。おかげさまで商売繁盛なの。後2月もしたら別の雑誌で新連載が待っているのでございます」
「じゃ、どれくらい楽してられんの?」
最初は肩を揉んでくれていたその手が、動きを止め、ぐるっと後ろから抱いてくる形になる。
「そうね。準備もあるし、1月が限度ね」
「そっか。じゃその1月は、俺と一緒にいられるな」
そしてその手は、あたしの服に襟口から侵入してくる。
「―――機嫌悪いって言わなかった?」
男ってどうしてこうなのかしら。あたしはそんな気分になれないっていうの。「一仕事終わって、さっぱりしたろ?」「それはそうだけど」「じゃ、体もさっぱりしようって」
訳の判らない理屈に、ため息を漏らす。((バカ))男ってつくづく判んない。
「一仕事終わって疲れてる作者に、ご飯くらい作ってあげようって気にはならないわけ? 初代編集さん」
胸元にまで至っていた手が、そこでぴたりと止まった。「そう言ってくるかよ」「当たり前よ」
仕事にかけてはキッチリしているヤツのせいか、ゴウはこういう言い方をすると結構使えるヤツになる。
「ハイハイ、判りました。ただいまお疲れのわたらいたづな大先生サマに、精のつくご飯をお作りいたします」
「精のつく、だけ余計よ」
下手に起きてた分、また目が醒めてきた。ナチュラルハイってヤツかしら。
あたしはタバコを取り、また吹かす。
白い煙が、あたしの眼前で揺れる。
タバコなんて、昔はだいっ嫌いだったのに、東京に着てからは、すぐに吸うようになった。
昔は、「百害あって一利なしじゃない!」とか叫んでいたけど。子供だったしね。あの頃のあたしは。
そうそう、感情を乱して声を荒げたりすることも、少なくなったかな。
別にいいんだけどね、そんなこと。
ただ煩かった昔になんて、別に戻りたくはないし――――。
戻りたいとも…思わないし。
「ほぉら。俺の特製料理だ。さぁ喰え。すぐ食え」
「煩い」
ご飯とかも自分ではあまり作らなくなった。昔は結構好きだったのにね。
ケーキとかを、あのバカとかに食べさせたくて、張り切ってた頃も。今はもう遠い昔。
「ったく、張り切りがいのないやつだなー」
ゴウが憎まれ口を叩く。
頂きますも言わず、食べるあたしには、もう悪いけどどうでもいいことなの。
煩い食卓は、苦手になっちゃったの。
「ところでさぁ、俺、お前に聞きたいことあるんだけど」
「何?」
昔は煩い、っていうか賑やかなのが当たり前だった。
静かなのが変だと思うくらいに。
でも今じゃ、みんなその逆。―――嫌いになっても、おかしくはないでしょ?
「お前の仕事が、一段楽するまで、待ってたんだけど」
いろいろな物を手に入れてきたわ。
立場や、お金。オトコ。
「だから、何よ」
だけど、それと同時に失うものも多かったような気がする。
「―――俺、ここに引っ越してきたいんだけど」
「はぁ? それ、どういうこと?」
それはきっと、気のせいじゃないと思う。
「お前と一緒に、暮らしたいんだ」
ひづめあたりの毎月の月収くらいの(ちょっと大げさか)家賃のマンションに住んでも。
「一緒に暮らしたいって…同棲のこと?」
まともに家事さえしなくなっていたり。
「―――違うよ。俺が言いたいのは」
多分昔のあたしが嫌いなタイプになっているんだろうな、と思っても。
「……結婚……?」
その自分を変えようとは思わなかったり。
ゴウはゆっくりと頷く。「俺たち、付き合いももう4年近くなるし―――。そろそろ考えてもいいかと思うんだ」
「……」
結婚?
((多分昔のあたしなら、すっごい興奮するのかしら))
あたしはプロポーズなんだろうその言葉に、醒めて感想を思っていたりした。
面白くない本を読み終わった後のように。
結婚て、……何よ。
「結婚て…何?」
あたしは思ったとおりのことを、口にする。
「たづな?」
「結婚て何、って聞いてるの。それは籍を入れること? それとも、子供でも作ることなの?」
困惑している様子のゴウを、あたしは冷静に見てた。
女だったら、憧れてるはずの。好きな人からのプロポーズを受けた直後なのにね。
「あたしは、―――今は、そんなのに価値を見出せないわ」
作品作りにおいてなら、全幅の信頼を寄せている人。
それは恋愛においても、その立場は変わらなかったはずなのに。
あたしの心はちっとも揺れなかった。
「今日は、帰ってくれない?」
きっとコレが、あたしが手に入れたものと引き換えに、失ったもの。
きっときっと、大事だったはずに違いないもの。
「たづな…」
今日は帰る。だけど、考えておいてくれよな。
そう言って、ゴウは帰っていった。
だけどあたしは、一人になった後も、結婚なんて考えられなかった。
あたしもそろそろいい年。
そしてゴウもそれは同じ。結婚とかを考えるのは、自然な流れなんだろうとは思う。
―――だけどどうしてかしら?
何故、あたしの心はちっとも揺れないのかしら…。
「寝よ…」
あたしはもう何も考えたくなくなって、寝室に行こうとした。
RRR…RRR…
すると同時に、また電話のベルが鳴る。でもゴウからかと思うと、あたしは咄嗟にはでることはできなかった。
ピコ。留守電に切り替わる音。「ハイ。渡会です。ただいま留守にしております。ご用のあるかたはピーという発信音の後にメッセージをどうぞ」留守電のメッセージが一通り流れる。
あたしは止まったその位置で、立ち尽くしていた。
「えー。たづな。いないの?」
でもその声は、ゴウからじゃなかった。
留守電相手ということで、面持ち緊張したような口調で、その声は続く。
「えと。久しぶりだね。ひびきです。―――実は来週、響平がそっち行きたいって行ってるんだわ。で、たづなのとこでお世話になれないものかと思って…。連絡ください。待ってるから」
その声は久しぶりに聞く姉のひびきちゃんの声だった。
ちっとも変わっていないその声と、その口調と。
そしてそのひびきちゃんの言った話の内容に。あたしは、暫く動けないでいた。